鶴ヶ城(つるがじょう)こと会津若松城の歴史を3行でまとめました。
長い歴史のある鶴ヶ城ですが、その歴史を簡単に解説しています。
- 蒲生氏郷が基礎を築いた
- 江戸時代の会津松平家が全盛期
- 戊辰戦争で廃城、昭和時代に再建した
以上が鶴ヶ城の歴史のポイントで、この3つをおさえておけばOKです。
各項目をそれぞれ、分かりやすく解説していますので、興味のある方はぜひ、続きをご覧ください。
【簡単】鶴ヶ城の歴史を3行で分かりやすく解説
繰り返しになりますが、鶴ヶ城の歴史はこちらの3行で振り返れます。
- 蒲生氏郷が基礎を築いた
- 江戸時代の会津松平家が全盛期
- 戊辰戦争で廃城、昭和時代に再建した
では、各項目を解説していきます。
①蒲生氏郷が基礎を築いた
現在の鶴ヶ城の基礎は蒲生氏郷が1592年に築きました。
それまでの「黒川」という地名を「若松」へと変更しました。城下町を整備して近世城郭を築きました。
もともとは、鎌倉時代から戦国時代まで会津地域の領主だった蘆名氏が1384年に同地に東黒川館を築きました。その後、少しずつ拡大していき、黒川城を中心とする城下が成立していきました。
戦国時代の1589年、伊達政宗が会津に侵攻して蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にします。しかしその後、伊達政宗が豊臣秀吉に臣従した際に会津を召し上げられ、代わりに蒲生氏郷が会津へとやってきました。
最初に同じ場所に城を築いたのは蘆名氏ですが、現在の城郭の基礎を築いたのは蒲生氏郷です。
なので、蒲生氏郷が鶴ヶ城の基礎を築いたといえます。
②江戸時代の会津松平家が全盛期
鶴ヶ城の全盛期は会津松平家が統治していた時代です。
蒲生氏郷ののち、城主は上杉景勝や蒲生秀行、加藤嘉明など短い期間で交代していきます。
その後、1643年に保科正之が入封することにより、幕末まで続く会津松平家の歴史がはじまります。
松平家による200年以上続いた統治は、藩校日新館や白虎隊に繋がる文武一体の士風を育て、幕末期に雄藩として歴史の表舞台へでていくきっかけとなりました。
今でも会津では会津松平家は慕われ、街のそこここに面影が残っています。
③戊辰戦争で廃城、昭和時代に再建した
幕末、薩摩藩を中心とする5藩が新政府の樹立を宣言し、江戸幕府に対して戊辰戦争をしかけます。
会津藩は幕府軍や奥羽越列藩同盟とともに新政府軍と闘いますが、敗北し降伏します。このときに鶴ヶ城も戦場となり、天守閣も激しい攻撃を受けました。
明治維新後の1874年、明治政府により天守閣の取り壊しが決定され、建造物は解体されました。
そして1965年、市民の長年の願いもあり鉄筋コンクリート造により天守閣が再建されます。
2011年には幕末期と同じ赤瓦へと復元され、今の鶴ヶ城の姿へとなりました。
まとめ
以上が鶴ヶ城の簡単な歴史の振り返りです。
探れば探るほど深い歴史のある鶴ヶ城ですが、まずはこれくらいから興味をもってもらえたら嬉しいです。
今後、3行で分かる会津の歴史はシリーズ化していきたいと思いますので、まぜぜひご覧ください。
ねづ店長のワンポイントアドバイス
歴史のポイントを抑えてから史跡を訪れると、見え方や感じ方が変わってくるよね。