『蜘蛛の家』ポール・ボウルズ あらすじと感想|フェズの街を舞台にした小説

『蜘蛛の家』はポール・ボウルズの3作目の長編小説として1955年に発表されました。

1954年のモロッコの古都・フェズを舞台に、独立闘争の中を生きるアメリカ人男性とモロッコ少年の姿を描いています。

作者のポール・ボウルズはアメリカ出身の作家ながら、1947年から半世紀以上にわたってモロッコで暮らしました。

『蜘蛛の家』は第二次世界大戦後のモロッコの古都フェズの在りし日の姿を描いた傑作です。

ここでは『蜘蛛の家』の感想とあらすじを紹介します。

『蜘蛛の家』のおおすじ

アラーをさしおいて他に主を求める者のありさまは、喩うるならばみずから家を築かんとする蜘蛛のごとし。見よ! かの家ほどに脆き家はなし。されど彼の者どもの知らざりしを。『コーラン』からの引用『蜘蛛の家』-P10

 

『蜘蛛の家』は二人の主人公がいます。

アメリカ人作家のステンハムと、モロッコの預言者の家に生まれたアマールという少年です。

1954年の独立闘争のさなかのフェズの激動を、二人の視点から語られます。

作者は執筆の意図をこう語ります。

わたしが書くことを望んでいたのは、フェズの伝統的な日常生活を基盤とした長編小説であった。二十世紀の今日にあってもこの邑のなかに中世が生きていたためである。『蜘蛛の家』-p3

 
モロッコを実質的に占領していたフランスと、フランスからの独立を目指すイスティクラルとの争いが日増しに高まり、フェズにおいてピークを迎えようとしていました。

古き良きモロッコ人を愛するステンハムと、伝統的な思考をもつ家庭で育ったアマール。旧市街をそっくりと保存し新市街を建設するフランス軍、フランス的な生活に憧れる市民、モロッコの独立闘争に参加しながらイスラムの戒律を守らないイスティクラルの大物…。

現在でもフェズの旧市街は中世の姿を残す迷宮都市として世界遺産に認定されています。

複雑に入り乱れた蜘蛛の巣のような街を舞台に 、時代の変化とともに生じた物語が描かれます。

物語の時代背景

一年前 フランスが前代未聞の無責任なやり方でスルタンを退位させて以来、緊迫した雰囲気が続いている。すでにそれは感じていた。とはいうものの、それはどこまでも紙の上の政治の話にすぎなかった。 実際のところ、一九五四年の政治状況は、 彼が知りかつ愛する、この神秘的な中世の邑とは何の関わりもなかった。『蜘蛛の家』-p19

『蜘蛛の家』はモロッコのフェズという街が舞台です。

フェズは日本で言えば京都や奈良のような古都にあたります。

日本との違いでいえば、日本は歴史的に外国勢力に激しい占領を受けたことはありませんが、フェズは頻繁に統治勢力が入れ替わっています。

本書は1954年のフェズが舞台となっています。

当時のフェズがおかれていた歴史的状況をまずは整理します。

まず、789年にイドリス1世が遊牧民族のベルベル人の支持をうけイドリス朝をたてました。
818年にはイベリア半島の後ウマイヤ朝からイスラム教徒が高い技術力とともに亡命してきており、この時代に街が発展します。

その後はエジプトのファーティマ朝、イベリア半島の後ウマイヤ朝などの勢力に替わりますが、またベルベル人によるムラービド朝やムワッヒド朝など、それ以降も幾度も王朝交代がおきます。

この間、フェズが首都に置かれる場合もあれば、マラケシュに首都が移ることもありました。

物語で重要なのは1728年からはじまるアラウィー朝で、現在の王朝でもあります。
アラウィー朝は1912年にフランスの保護領となり植民地支配がおこなわれます。

1953年にアラウィー朝のスルタンだったムハンマド5世は流刑にあい、フランスがたてたスルタンを王位に迎えました。

この間、イスティクラルという独立運動を目指すレジスタンスがフェズを中心に活動しています。

その後、1955年にムハンマド5世が復位し、1956年にモロッコはフランスから独立、アラウィー朝は現在にいたるまで続いています。

物語はフランスからの独立前夜となる1954年が舞台です。

ポール・ボウルズは1954年春にフェズを訪れたことを契機に本書の執筆を開始し、1955年に脱稿しています。

モロッコの歴史の変わり目を、その渦中から描いた稀有な作品となっています。

フェズの(簡単な)歴史

  • 789年ベルベル人のイドーリス1世によりイドリーズ朝が建設され、フェズが王都になる。
  • 818年にイベリア半島の後ウマイヤ朝からイスラム教徒が亡命し、街が発展する。
  • 9世紀初期はエジプトのファーティマ朝にはいる
  • 9世紀半ばは後ウマイヤ朝にはいる
    (イベリア半島の影響を受ける)
  • 1069年〜ベルベル人のムラービト朝(首都はマラケシュ)
  • 1146年〜ベルベル人のムワッヒド朝(首都はマラケシュ)
  • 1248年〜遊牧民像のマリーン朝(首都はフェズ)
  • 1472年〜ワッタース朝(首都はフェズ)
  • 1659年〜サアド朝(首都はマラケシュ)
  • 1728年〜アラウィー朝(1912年まで首都はフェズ)
  • 1912年〜フランス当地
  • 1956年〜モロッコ独立

フェズという街

フェズでは一日は、夜明けのはるか前に 始まる。 早朝の礼拝の声が始まる前までに眠りに就くことができそうにないと思うと、恐ろしく不愉快になった。 礼拝の声は黎明の大音声となり、緩やかに邑中に拡がると、陽光が書くけっして和らぐことがないのだ。『蜘蛛の家』-p19

フェズはモロッコ内陸部にある街です。

フェズは789年から1200年以上にわたる歴史があります。
そのため、街区もどの歴史時代に形成されたかによって様相が異なります。

まず大きく分けて旧市街と新市街の区分があり、旧市街は更に2つに分かれます。分け方や考え方は色々とあるようですが、今回は物語上で重要な区分のみふれます。

 旧市街(メディナ)

  • フェズ・エル・バリ
    物語の舞台の中心となる場所。9世紀のイドリス朝時代に街区が形成されます。現在では街全体が世界遺産となっており、中世の街並みが残り、世界最大の迷宮都市とも言われています。蜘蛛の巣のように入り組んだ街区は『蜘蛛の家』というタイトルにもピッタリです。
  • フェズ・エル・ジェディド
    13世紀のマリーン朝によって造られた街。王宮や旧ユダヤ人街(メラー)などがあります。
 新市街

  • ヴィル・ヌーヴェル
    フランス統治時代となる1912年に形成された街。平らな地形にフランス風の大通りや街路樹など、西欧文化を象徴する場所になっています。

物語を読みすすめる上で、以上の街の区分を頭にいれておくと、より分かりやすくなるかと思います。

登場人物

自分の世界像が父親のそれとあまりに違っているという念が、彼の存在を守る防波堤だった。父親は邑に出かけるときに、モスクとコー ランと他の老人たちのことしか頭になかった。それは定めと書かれた文字といつもながらの施しからなる萬古不易の世界だったが、今ではところどころに亀裂が走り、痛んでいた。一方、アマールが扉を開いて飛び出すと、そこには広大な大地が彼を待っていた。『蜘蛛の家』-p43

物語の登場人物もそれぞれの立場から独立闘争のさなかのフェズを生きています。

物語には二人の主人公がいます。
フェズに滞留するアメリカ人作家のステンハムと、生粋のフェズっ子であるアマールというモロッコの少年です。
物語は二人の視点から進行していきます。

アマール
フェズ・エル・バリに暮らす少年。バラカという法力を授かる家庭で育つ。敬虔なムスリム。人々の尊敬は得ているが、家庭は困窮している。イドリス朝につらなるアリの子孫の家系でもあり、父親のシ・ドリスは現在のアラウィー朝を正統とみなしていない。

ステンハム
フェズ・エル・バリで暮らすアメリカ人作家。モロッコに来て数年がたつ。古き良き時代のフェズが失われていくことを嘆く。アマールに伝統的なフェズを見出す。かつて共産党に入党していた。

その他にも重要な登場人物がいますが、巻頭に登場人物紹介ページがあるので、ここでは2名のみ追記します。

リー
アメリカ人女性。夫を捨ててモロッコへやってきた観光客。当初は態度にださなかったが、実は作家としてのステンハムのファン。モロッコの近代化はモロッコのためになると考えている。

ムーレイ・アリ
イスティクラルの大物。フェズでフランスへの独立闘争をおこなうイスティクラルの大物。果樹園の館に隠れ住む。

本書の章立て

本書はプロローグ+35の章立てで構成されています。
章はさらに4部に分かれています。

アマールとステンハムの視点から物語は進み、やがて二人は出会います。

  • プロローグ
    ステンハムの視点
  • 第1部 知恵の主人
    第1章〜第5章
    アマールの視点
  • 第2部 罪の終わり
    第6章〜第14章
    アマールの視点
  • 第3部 燕の時刻
    第15章〜第23章
    ステンハムの視点
  • 第4部 上り階段
    第24章〜第35章
    アマールとステンハムの視点

『蜘蛛の家』あらすじ

物語のあらすじを記します。

物語は1954年の動乱のフェズを、アメリカ人作家のステンハムと、イドリス町に起源をもちフェズ・エル・バリに暮らすモロッコ人少年のアマールの二人の視点から語られます。

歴史の層が何層にも折り重なった街で、フェズで暮らす外国人や、フェズ育ちの少年たち、フランス軍やイスティクラルが新しい歴史を動かしていきます。

それぞれの立場が単純でないことは、序文に記されたボウルズの次の文章から読み取れるかと思います。

そのとき、わたしはすでに二十年以上にわたって、フランスのモロッコ支配の終焉を待ち望んでいた。 独立が達成されるや旧来の生活様式が復古し、国は多かれ少なかれフランス人がいなかったころの状態に戻るのではないかと、無邪気にも信じていたのだ。 民衆の側があらゆるヨーロッパ的なるものを嫌悪していたため、当然そのような結果となるだろうと思われたのだった。わたしの犯した過ちとは、モロッコがいまだに広い意味で中世の国であるのは、もっぱらフランス人がそれを望んでいたためであって、けっしてモロッコ 人によるものではないという事実を、理解できていなかったことである『蜘蛛の家』-p3

フェズの街が蜘蛛の巣のような迷宮の形のまま、現在でも中世の様相を残して観光客をひきつけ続けるのは、フランス軍が旧市街地を保存する方針を打ち出したためとされています。

こうしたボウルズの冷徹な眼差しが、本書を深く豊潤な物語にしています。

次から詳しいあらすじを記します。

物語の期間は1954年のラマダン後からはじまり、犠牲祭(アイド・エル・ケビル)までです。

ラマダンがそれぞれの政治的、宗教的立場を浮き彫りにさせ、歴史の激動へと至ります。

詳細はネタバレを含みますので、読みたい方だけ下記をクリックしてください。

詳しいあらすじはここをクリック

プロローグ

夜にメディナを彷徨うのは多分に目隠しをしているようなものだった。 耳と鼻だけが頼りだった。夜にひとりで出歩くときには、知った径のどの箇所でどんな音がするか、彼は知悉していた。『蜘蛛の家』-p15

ステンハムは富裕なモロッコ人であるシ・ジャファルの家を辞する。ホテルまでの帰り道に共の男をつけられる。それは今までないことだった。ホテルに着くと男はすぐに消える。門番がいつもより早く扉を開いたように感じた。いつもと違う違和感を感じる。
部屋につくと、イギリス人の友人であるモスが深刻そうな顔をして待っている。

第一部 知恵の主人

父親は邑に出かけるときに、モスクとコー ランと他の老人たちのことしか頭になかった。それは定めと書かれた文字といつもながらの施しからなる萬古不易の世界だったが、今ではところどころに亀裂が走り、痛んでいた。一方、アマールが扉を開いて飛び出すと、そこには広大な大地が彼を待っていた。生命も、神秘の大地も、誰のものでもない以上、彼のものであるといってよかった。『蜘蛛の家』-p43

アマールは学校に通わなかったために文盲だった。父はそれを後悔している。兄のムスタファはアマールの行動を父によく告げ口する。それをうけて父はアマールを打擲することがある。父はアマールの交友関係を心配している。アマールの友人にはイスティクラルに入っているものもいる。父は預言者の家系であることと現状との間で揺れている。

父はアマールに仕事につかせようとする。アマールはみずから轆轤職人に声をかけ、仕事をもらう。アマールは仕事の才覚を見せつける。
アマールはカフェで職人と政治の話をする。現在のスルタンはフランス人が選んでいること、もとのスルタン(ムハンマド5世)の帰還を待ち望んでいること。イスティクラルの存在をどう受け入れられるか。
イスティクラルはフランスに協力するモロッコ人を殴ったり刺したりする。同じモロッコ人同士でもなかなか真意を話すことができない。

第1部ではアマールの家系のフェズにおける現在の暮らしぶりと、フェズののっぴきならない政治状況が語られる。

第2部 罪の終わり

彼は心のなかでアラーへの長い祈りを唱え始めた。 フランス人がどっちみち地獄へ堕ちることはわかりきっているが、その前にムスリムの手によって、およそ人間が思いつくかぎりこのうえなく恐ろしい拷問を授けられますように。 ムスリムが 連中に苦痛と絶望をもたらすにあたり、新たに複雑な趣向を思いつくことができますように。『蜘蛛の家』-p160

アマールはフランス人のお店から自転車を借りて友人のララミと湖水浴に行く。そこで友人と喧嘩をし、一人で帰る。
途中、果樹園を見つけて入り込む。そこでムスリムだがヨーロッパ風の男と出会い、大きな館へ通される。館にはムーレイ・アリとアリを慕う少年たちがいる。アマールは不安を抱えながら館をでて、自転車を返しに行くが、そこでぼったくられる。
街にはアラブ人の徴集兵がいなくなっていたり、いつものフトゥ門行きのバスがなくなっているなど変化がある。
仕方なく別の方面のバスに乗ると、途中の広場が屋台や見世物の小屋が賑やかでバスを降りる。小屋ではムスリムの生活を馬鹿にした人形劇をムスリムの女性が見ていて、アマールは嫌悪感を抱く。
さらに帰途、友人の兄であるベナニと出会い、一緒にカフェへ行く。カフェにはベナニの仲間たちがいた。アマールはアリがアマールを調べるためにベナニを送り込んだと考える。ベナニはアマールの家までついてこようとする。帰宅すると父親がフランスとの戦争を心配していた。
アマールは父親と食料を購入しに街へでる。犠牲祭まで後4日だが、食料を買い揃えてしまうと羊を買う金がなくなった。今年の犠牲祭がどのようにおこなわれるかが気になる。
買い物の後に一人で出かけると、20人の若者がムスリムの警官二人を小突き、ナイフでさすところに遭遇する。罪をかぶせられると怖れ、その場を離れるとフランス人の警官に呼び止められ、ポケットの中身を改められた後で殴られる。特に何も見つからないと分かると警官は離れていく。
アマールはムスリムのそれぞれの立場について考える。見た目からは判断ができない。前スルタンの肖像を掲げる集団を賛美したい気持ちもあれば、フランス人の警官の格好良さに目を奪われもする。
アマールはメディナの外のカフェに入ると奥のテーブルに腰掛ける。ナザレ人が二人、カフェに入ってくるのが見える。

第3部 燕の時刻(とき)
ステンハムはイギリス人の友人であるモスとケンジーとホテルで会話をする。モスは新フランス派でケンジーはモロッコ人の味方に感じるが、ステンハムは物事はそう単純でないと承知している。
翌日、ステンハムはアメリカ人女性のリーと会う。リーはケンジーと知り合いだった。ステンハムはわざわざこの時期のモロッコに観光に来ることを不思議に思うが、リーは明確に答えない。ステンハムのホテルに移るという話もでたが、リーは翌日にメクネスに行くと言ってフェズを離れる。
一週間の内にモロッコ前後の政治的な状況は悪化し、ケンジーはイギリス領事館から祖国に帰るように警告されている。ホテルに滞在する外国人も彼らだけになる。ケンジーが野次馬にでて逮捕され、モスはその釈放のために動く。
ステンハムは再びシ・ドリスの館へ行く。ドリスの政治的な立場が分からないので行くことを悩むが、世間話をして帰ってくる。
ホテルに戻るとモスから呼び戻される。モスの部屋には二人の男がいて、今すぐフェズからでるように警告される。アメリカがフランスに武器を提供しており、このままだと不愉快なことがおこるという。
ケンジーはすでにタンジールに行ったという。ステンハムとモスは明日どうするか決めることにする。
翌日、リーから電話が入り、フェズに戻っているという。ステンハムは彼女がフェズの状況を理解していないと思う。自分がコミュニストとして党に所属していたことなどを話す。ステンハムはリーを似非民主主義だと言い口論になる。
様子を見に街に出て、カフェに入る。
カフェにいると外から機関銃の音が聞こえる。広場では殺戮がおこっている。カフェの中で二人はアマールを見かける。リーはアマールを気に入る。アマールはメディナへの戻る手段がない。リーは自分たちのホテルにくるように言う。3人は外にでる。

ステンハムの視点から物語が語られる。最後に第2部の終わりのアマールの視点の物語と繋がる。

第4部 上り階段
ステンハムとリーが、アマールを自分たちのホテルへとつれていく。アメリカ人は比較的まだ安全に行動ができる。アマールを滞在させることはホテルに気付かれないようにした。
アマールはリーの女性としての態度に驚き、嫌悪感を抱く。ステンハムには好感を抱くが、それでも理解には限界があると感じる。
フェズの暴動は激しくなり、ホテルが一時的に閉鎖されることになる。ステンハムたちは荷物を別のホテルに預け、アマールをつれてフェズを一度離れることにする。ジュベルザラフの南へと向かう。

途中で犠牲祭の祭りの夜に遭遇する。ドラムが鳴り響、金切り声があがり、土壌に体を塗れてのたうちまわる姿に、原初の夜を見出す。
ステンハムは積極的に輪の中に入り忘我になっていく。リーは輪の外でアイデンティティーの喪失をおそれる。

アマールはフェズへと戻ることにする。アマールは途中で再び畑の中の館へと行き、ムーレイ・アリに会う。アリからアマールの家族はメクネスにいると聞く。
アマールはそこで一晩すごすが、翌朝にフランス警察に取り囲まれる。アマールはアリに囮にされるが、うまく館を抜け出す。

アマールがステンハムたちのいたホテルへと戻ると二人と再会する。
二人はカサブランカへ行くという。アマールはメクネスまで一緒に行きたがるが、途中で車からおろされる。
アマールは車を追いかけるが、カーブを曲がったところで見えなくなり、物語は終わる。

『蜘蛛の家』感想

本作の主人公であるステンハムは、第三世界にあり、中世の面影を残すモロッコ人に対して、エキゾチシズムやプリミティブな感覚を求めています。

こうしたステンハムの人物造形には、ポール・ボウルズの初長編である『シェルタリング・スカイ』のポートや、二作目の『雨は降るがままにせよ』のダイアーに通じるものを感じます。

純粋さや原初的なものを求め、モロッコやサハラ砂漠の土地や人々にそれらを投影しています。

そのため、ステンハムはフランス軍とイスティクラルのどちらにも賛意はもちません。

対して、もう一人のアメリカ人であるリーは、モロッコが文明化して進歩的になるのは良いことだと考えています。

独立闘争のさなか、二人は無責任な観光客という立場からフェズの街をみます。

人は異国にどこまで関わることが可能か?

彼にとってモロッコ人とは最初、客観的に存在する、単調で一枚岩の力だった。そのすべてがいっしょになって、多少なりとも人間的ともいえるものを構成していた。しかしその一人ひとりは誰も、あの不可分にして未分化のモロッコ人という全体の名もなき部分であるか、それとわかる象徴でしかなかった。『蜘蛛の家』-p406

ステンハムはアマールという不思議な少年に出会うことで、モロッコ人全体への印象が変化します。

彼はそれまでモロッコ人を全体として見ており、太陽や風に似た自然な何者かであり、西欧諸国とは違う人々だと考えていました。

ところが、アマールを知ることで、彼らにもまた個人というものが存在することを知ります。

『蜘蛛の家』はポール・ボウルズの最高傑作と讃えられることがあるようです。

フェズという迷宮のような街で、独立闘争という非常に緊迫した世相の中で、さまざまな主義や主張、生き方や考え方が絡み合います。

イスラム教とキリスト教、第三世界と西欧諸国、男と女、アメリカ人とフランス人、イドリス朝とアラウィー朝、民族主義者と共産主義者、進歩主義と懐古主義…。それら全てを凌駕していく時代のうねり。

独立闘争が激化するなかで、できるだけフェズに滞留しようとするステンハムたちは、アマールを保護しながら状況を見極めようとします。

しかし、最後にフェズを離れるときには、アマールを路上に残して去っていきます。

そのとき、アマール側の視点で語られるステンハムとリーは、名もなき全体的なアメリカ人として描写されています。

ポール・ボウルズの作品の多くは、最後に視点は交わることなく、責任が放棄されたように物語が閉じていく作品が多いように感じています。

ポール・ボウルズはアメリカ人作家としてモロッコに半世紀にわたって暮らしましたが、少なくとも移住初期の彼は、けっして外部の者がモロッコや北アフリカの文化を知悉し、地元の者と同じ次元で土地に暮らすことはできないと感じていたのではと思います。

本書の訳者である四方田犬彦が著した『モロッコ流謫』は、翻訳後に作者のポール・ボウルズを訪ねるエッセイなどで構成されています。

そこで、ショックリーという現地のベルベル人の作家は、ボウルズはモロッコに自分の理想を投影しているとし、モロッコで異邦人として暮らす彼をこのように批評しています。

ショックリーは、ボウルズがつねに自分を孤立した異邦人と見なし、モロッコに受け入れられていないという強迫観念に取り憑かれているとする。(…)世界のもっとも高い尖塔の最上階に座って、眼下に生起する物事を達観するという姿勢を崩さないボウルズの急所を、これほどまでに端的に刺し貫いた評論は皆無だろう。(…)現実にいかなるノスタルジアとも神話とも無縁の過酷な人生を送ってきたベルベル人がかくのごとき批判をしたことを、わたしはある爽快感のもとに受け止める。

『モロッコ流謫』-p176

異なる土地や国に移り、そこで異邦人として暮らすこと。

現在もアフガニスタンやウクライナなどの戦争や、大都市でのロックダウン、経済的な停滞など多くの土地で困難を迎えています。

グローバリズムで経済網が繋がり、インターネットで世界の情報と同期されている現在にあっても、その土地が激動の時代を迎えれば異邦人としての在り方が問われる瞬間がきっと多くあるのだと思います。そこには、越えがたい究極の壁のようなものがあるのかもしれません。

本書は、第二次世界大戦後に観光が開かれ、人々が世界を移動できるようになった時代に、北アフリカのフランス統治下のモロッコで、モロッコの人たちに心情を寄せながらも、あくまでもアメリカ人として生きたポール・ボウルズという稀代の作家の心情が文学として昇華された傑作といえるのだと思います。

フェズの街の描写

『蜘蛛の家』はモロッコ独立前のフェズの街の雰囲気を感じられる小説です。

2020年2月にフェズの街へ行ったことがあります。

中世の城郭の中で、近代化した人々が観光客を相手に商売をし、生活をしていました。

それでも、そこここに残る強烈な「フェズらしさ」が街にはありました。

ボウルズは序文で失われたものとして描いていましたが、ここにしかな確かなものを感じました。

街には部外者には分からない秩序がありました。

『蜘蛛の家』は読みやすい小説ではないですが、フェズという街の歴史の記録であり、今の我々の価値観とは異なる世界を覗き見れるような面白さがあります。

ボウルズが見たフェズから70年以上が経過しましたが、時の経過とともに更に評価されていく作品ではないでしょうか。

作者のポール・ボウルズについて

作者のポール・ボウルズは1910年のニューヨーク生まれです。

幼少期から声楽や音楽理論を学び、ストラヴィンスキーやエリック・サティの影響をうけて育ちました。

1930年に初めてのソナタを完成、音楽家としてデビューし、ジョン・ケージらとの交流をもちます。1937年にはテネシー・ウィリアムズの劇音楽をつとめるなど、音楽家としての地位を確立していきます。ポール・ボウルズはまず、音楽家として世に知られることになりました。

1938年には作家のジェイン・アウアーと結婚。
ニューヨークで音楽家としての地位を築きあげようとしていた1947年、彼はジェインとともにモロッコのタンジールへと移住します。それは思いつきのようなものではなく、彼らはタンジールを終の棲家とし、ジェインは1974にポール・ボウルズは1999年にそこで死去しました。

ポール・ボウルズが小説を書き始めたのは、ジェインからの影響ともいわれていて、1945年に最初の短編集を発刊します。

そして、タンジールへ移住した2年後の1949年に初の長編作品である『シェルタリング・スカイ』を発表しました。
日本でも1955年に翻訳され、1990年にはベルトリッチ監督のもとで映画化されています。

この作品が与えた影響力は凄まじく、バロウズやギンズバーグは彼を慕いタンジールを訪れ、1950年代のビートニクス文学への興隆へと繋がっていきました。

ねづ店長のワンポイントアドバイス

失われてしまったものに、思いを馳せるのもいいかもね。

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